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 4.「水無月」とは、何か? -起源- 

 6月になると、京都で食されるようになる「水無月」。ここでは、その起源についてみていくことにします。
 
     [目次]  1、はじめに
           2、「水無月」の語義
           3、「氷の朔日」と「夏越の祓」
           4、お菓子の「水無月」の起源
           5、「水無月」の定着
           6、おわりに




 4.1.はじめに


 「ういろう」に関心を持つようになった頃のこと、滋賀県へ旅する機会があり、このときとばかり、和菓子店巡りもすることにしました。近江八幡から野洲にかけての地域、滋賀県にはどんな「ういろう」があるのかと期待しつつ、10軒訪問。その中で、「今日は作っていない、売り切れ」という店が3軒、「季節的に作っていない」という店が4軒ありました。
 東海地方の「ういろう」は通年商品であることから、「季節的云々」という意味が理解できずにいたところ、次のような栞をいただきました。京都・滋賀地域における「ういろう」とは、6月限定の三角ういろうが主流だったようです。


   みな月の由来

 昔から京都では六月三十日には諸々で、「夏越の祓い」が行われ、特に御所では天然の氷雪を氷室(略)に貯え、献上された氷を諸臣に与え、氷を口にし暑気を払った行事を「みな月」といいました。
 一般には、夏季に氷を得ることはとても望めず、麦粉で作ったお菓子を三角形に切って氷を表現し、上に乗せた小豆には悪魔払いの願いが込められ、宮中の故事にならって悪疫・災難の退散を願って今日まで伝承されてきた、夏のお菓子であります。

 6月になると、さっそく同地域の和菓子店を再訪問。写真がその「水無月」です。三角ういろうは尾張や西美濃でも珍しいものではないんですが、上に小豆がトッピングしてあるのが特徴的。
 この「水無月」の起源、実はあまりよく分かっていないようだったので、さらなる追求へ。題して「水無月とは、何か?」





 4.2.「水無月」の語義と由来


 お菓子の「水無月」の由来は上記の栞の記述のようであるとされていますが、ここではさらに言語学的・歴史的に検証していこうと思います。

 4.2.1.「水無月」の原義

 まずは、「水無月」の原義を再確認しておきます。辞書では、次のように定義されています。こちらは、高校の古文でも学習しましたが、「陰暦6月」のことですね。

  a;「水の月」「田に水を引く必要のある月」「陰暦6月の異称」(『日本語大辞典』小学館)

 4.2.2.お菓子の「水無月」

 本論で扱うお菓子の「水無月」についてみていきます。「外郎」の記述が古語辞典に見られるのに対し、「水無月」は古語辞典には掲載されていません。代って、京都を中心とした方言辞典にその記述をみることができます。このことからも、「外郎」の中でも新しい形態、ローカル的なものということがわかります。

 (1)「水無月」の発音

 「水無月」はどのように発音されているのかを、簡単に紹介しておきます。地域・出典により違いがみられます。なお、●は高く、○は低く発音されます。

  @、ミナズキ {H0、●●●●} (
『大阪ことば事典』、『京都府方言辞典』
  A、ミ]ナズキ {H1、●○○○} (『京ことばの辞典』)
  B、ミナ]ズキ {H2、●●○○} (『生活とことば〜京都・滋賀の暮らし』)
  C、ミ[ナ]ズキ{2、 ○●○○} (『日本語発音アクセント辞典』)

 伝統的な京阪方言ではH0、東京アクセントは2となっています。最近の京都方言ではH1、滋賀県はH2であるなど、地域・時代により揺れがみられます。
 なお、ズが無声化して、「ミナツキ」と発音される例もあります(楳垣1946、前田1965)。


 (2)「水無月」の定義
 
 「水無月」は概ね、次のように定義されています。

  b;「外郎餅に似た菓子。上に小豆を散らし三角に切ってある」(『京言葉』)
  c;「外郎に小豆を散らした菓子」 (『日本語大辞典』小学館)
  d;「外郎餅に小豆を散らして三角に切った菓子」
 (『上方語源辞典』)
  e;「小麦粉と米粉の粉に砂糖を加えてねり、甘く煮た小豆粒を散らして蒸した棹物菓子で、形は三角形に切ってある」 (『大阪ことば事典』)
  f;「氷片をかたどった三角形のういろうの上に、甘く煮た小豆を散らした和菓子」 (『京ことば辞典』)
 
 これより「水無月」は、
「小豆を散らして三角形に切った外郎」ということになります。


 (3)「水無月」の由来

 「水無月」の由来は、次のように解説されています
(漢数字はアラビア数字に置き換え。下線は引用者による)

  g
;「古く陰暦6月1日を食べる習慣があり、その氷の形に作ったことから」 (『日本語大辞典』1972)

  h;「古く陰暦
6月1日に氷を食べると夏中病気をしないとて、この日氷室のを食べる習慣があった。『氷の朔日』と呼ぶのはこれによる。その氷の形に作ったのでこの名があるという」 (『上方語源辞典』1965)

  i;「昔は
6月1日を『氷の朔日』とて、宮中では冬のうち氷室を雪を貯めて氷となったものを取り寄せて諸臣に与え、公卿はさらにそれを知人に分け与えた。この氷の小片でも口にすると、夏やせをせぬといい、また、夏中病気にかからぬともいわれたもの。」 「みなづきは、これをまねたもので、白い三角形はこの氷を象ったものだという。」 (『大阪ことば事典』1979)

  j;「
6月30日夏越の祓の日で、各地の神社では大祓が行われる。中でも上加茂神社での茅の輪くぐりが有名。この日に、この菓子を食べれば厄除けになり、夏の病気にかからないという。6月に入ると、町々の餅菓子屋の店頭に並び始める」 「三角の白ういろうは、氷片を象ったものという。」 (『京ことば辞典』1992)

  k;「
6月30日は、旧暦でいう水無月祓のある日で、この菓子を食べる習慣が今に残っていることから。これを食べると厄除けになり、夏の病気にかからないという」 (『生活とことば』1994)

  l;「
夏越の祓の日(6月30日)に食べると、夏病気にならないと言われる」 (『京ことばの辞典2008) 


  「6月×日の『××の日』に、××を食べれば厄除けになり、夏の病気にかからない」というテーゼは共通なのですが、70年代以前の記述(g〜i)と、90年代以降(j〜l)では、××の部分が以下のように変化しています。

   6月1日・氷の朔日・氷  →  6月30日・夏越の祓・菓子 

 つまり、「氷の朔日に氷を食べる」ということが忘れ去られて、いつのまにか「夏越の祓に菓子を食べる」ことに摩り替わってしまっているわけですね。上記の栞を検証してみます。 

 昔から京都では六月三十日には諸々で、「夏越の祓い」が行われ特に御所では天然の氷雪を氷室(略)に貯え、献上された氷を諸臣に与え、氷を口にし暑気を払った行事を「みな月」といいました
 
一般には、夏季に氷を得ることはとても望めず麦粉で作ったお菓子を三角形に切って氷を表現し、上に乗せた小豆には悪魔払いの願いが込められ、宮中の故事にならって悪疫・災難の退散を願って今日まで伝承されてきた、夏のお菓子であります。

 古来より続く「氷の朔日」と「夏越の祓」が混同していることがわかります。その理由を探っていく前に、「氷の朔日」と「夏越の祓」について簡単に見ておくことにしましょう。



 4.3.「氷の朔日」と「夏越の祓」

 4.3.1. 氷の朔日

 「氷の朔日(ついたち)」とは、平安期、旧暦6月1日に、宮中で臣下に氷室の氷を賜る日でした。起源は古代中国の「賜氷」にさかのぼることができ、半島を経て日本に伝播、奈良期には確立したとされています。日本の賜氷制度も、鎌倉期前後には廃れてしまったようです。室町期から江戸期にかけて、この賜氷制度が民間信仰と一体化して「氷の朔日」へと変質していったのでした。

 江戸期には、諸大名が将軍に氷の代わりに氷餅を献上しました。氷餅とは、寒中に搗いて凍らせた餅ですが、正月の餅に込められた霊力を一年の半ばまで保存しておき、その力が最も必要とされる6月に吸収しようとしたのではないかと考えられています。江戸後期にもなると、「氷の朔日」はいろいろな名前で全国各地にみられるようになりました。

 京都市でも北区中川(旧葛野郡)では、正月の餅を「かき餅」として保存し、6月1日になると「かき餅」を炙って神に供え、食べます。中川では、「水無月」ではなくこの「かき餅」こそが氷室の氷を象ったものとされています。

 4.3.2. 夏越の祓
 
 6月と12月の晦日は大祓の日で、半年分の罪や穢れを祓うための祭事とされています。6月の大祓を「夏越の祓(なごしのはらえ)」あるいは「水無月祓(みなづきはらえ)」といいます(写真左)。起源は古く、大宝律令(701年)に宮中の年中行事に定められています。

 6月30日、多くの神社では「茅の輪潜り」が行われます。チガヤで作った輪の中を、図(写真右下)のように左回り、右回り、左回りと3回回ることにより穢れを祓うものです。素戔嗚尊(スサノオノミコト)が諸国を巡った際、宿を借りた蘇民将来に「カヤの輪を腰に付けていると難を免れる」と説いたのがその起源とされています(『備後国風土記』)。

熱田神宮・大祓(2011.6.30) 愛知県護国神社・茅の輪潜り(2011.6.30)

 夏越の祓に何を食べてきたのかについては、「水無月考」(浅田2002)に詳しい研究があります。平安期に不明であるものの、室町期になると「小麦餅」が食されていたことがわかっています。この点について浅田は、「当時は、麦という点が重要」、「糯(もち)米や粳米の餅ではなく、小麦製の蒸餅が用いられたのは、小麦が豊富な時期だからであろうか」と指摘しています。

 形については、「
ネチ餅」、つまりねじった形の餅で、当時は一般的な形であったといいます。浅田はさらに、「丸でも三角でもなく、ねじった形の餅が水無月の原型といえるだろうか」と、水無月の起源を想定しています。 



 4.4.「水無月」の起源

 「水無月」の起源について、引き続き浅田(2002)の研究をもとに紹介していくことにいます。

 4.4.1.「水無月」の登場

 1725年の『虎屋黒川家記録』に、虎屋が御所に「
水無月蒸餅」を納めていたとの記録がみられます。これが今日に続く「水無月」の初出ではないかと考えられています。麦を使用していること、砂糖や大角豆を使用している点などは、今日の「水無月」に小豆を使用していることに通じているとされています。

 この記録以来、幕末に至るまで、虎屋は毎年6月30日に蒸餅を御所に納めています。なお、この行事は宮中の公式な行事ではなく、「どちらかというと常御所、女院御所といった日常の内裏だけの歳時」と考えられていたようです。

 もうひとつ、虎屋伊織(1702年創業、大阪の菓子店)の絵図帳『御蒸菓子図』にも「
水無月餅」が描かれています。

 ここで注目したいのが、6月30日に食べる麦餅を、当初は「水無月」(6月の餅)と呼んでいたという点です。これが時間の経過とともに「〜餅」が脱落して、今日の「水無月」に変化していったことがわかります。つまりは「水無月」という名称は、「水無月餅」の省略形であったわけなんですね。これは「外郎」が、「外郎餅」と呼ばれていたのと状況はまったく同じです。

    外郎 > 外郎、   水無月蒸餅 > 水無月 > 水無月


 4.4.2.「水無月」の形状

 室町期から明治期初頭にかけてみられた「水無月」には、次のような形状があったとされています。

 (1)ねじ形

 『多聞院日記』(1591年)に登場する「水無月餅」、すなわち、今日知ることのできる「水無月」の最も古い形状は、前述のとおり、「ネチ餅」であるとされています。当時としては一般的な形であったようです。
 
 この形状は江戸期にも継承されていて、「虎屋黒川家文書」(1822年)に水無月蒸餅として記録されています。ねじった餅に、小豆もしくは大角豆がトッピングされているという点は、今日の「水無月」と共通するものといえます。縦にすると藤の房に見えることから「藤の花」とも呼ばれていました。この「藤の花」は明治にも銘菓として継承されていたようです。

 (2)三角形

 今日、一般的である三角形の「水無月」についえては、江戸期の記録にはみられないとされています。ただ、こんにゃく料理を紹介した『蒟蒻百珍』(1846年)には、小豆をのせた三角形の「水無月」「早水無月」と呼ばれる料理が紹介されていることから、浅田(2002)は、「(これは)まさしく、菓子の水無月を真似た料理ではないか」「三角形の水無月がある程度認識されてこそ、このようなこんにゃく料理も生れたのであろう」と指摘しています。

 三角形の「水無月」の初出は、1918年(大正7)年まで待たなければなりません。見本帳に描かれた当時の「水無月」から、「白」と「黒」があったこと、今日は表面にトッピングされている小豆が、生地に混ぜ込んであったこと、などが分かります。これが、今日に続く三角形「水無月」の一番古い形態ということがいえます。

 (3)その他

 「水無月団子」と呼ばれていた丸形(1871年の記録)、正方形の四隅を切り落とした八角形(1822年)など、様々な形があったようです。



4.5.「水無月」の定着


 三角形の「水無月」が今日のように定着した経緯をみていきます。

5.1.「水無月」の創作

 「水無月」が今日のように京都に定着した経緯に関しては、以下の疑問点を挙げることができます。

 @ 宮中のあまり公的ではない行事が、なぜ今日のように一般的になったのか?
 A いつ頃から、今日のように一般的になったのか?
 B 「氷の朔日」に「氷」を食べる行事が、なぜ「夏越の祓」に「菓子」を食べる行事に変質していったのか?
 C ねじ方、三角形、丸形などの中から、どうして三角形だけが選択されたのか?

 @〜Bについては不明、Cについては「御幣」「斎串」「氷の形様」など諸説がみられます。

 しかし、浅田(2002)も指摘しているように、以下の記述はこれらの疑問点を一気に明らかにしてくれます。これは、京都の和菓子舗「若狭屋」2代目・藤本如泉(1928/明治28年生
)が、1968年(昭和43)に出版した『日本の菓子』において証言しているものです。

 お菓子の「水無月」は、生菓子の「氷室」より考案されたもので、加茂の水無月祓の神事にこじつけて、京都では、毎月6月30日に暑気払いのおまじないとして市民が頂くように、菓子屋の知恵で創られました
 
 これより、@BCについては、京都の菓子屋が「氷の朔日」と「夏越の祓」を意図的に結びつけて、「水無月」を売り出したことに起因することがわかります。

 ただ、上記の記述からは、Aのいつ頃から一般的になったのかを断定するのは困難なようです。 1946年(昭和9)発行の『京言葉』に「水無月」に関する記述が見られることから、戦前の京都では既に一般的になっていたことは間違いないようです。 

 以下、浅田(2002)の引用です。

 これなら、水無月の由来に氷室の節句が関わってくるのか、という矛盾に対する疑問は氷解する。6月30日の行事菓子に6月1日の行事を結びつけたのは、菓子屋が作り上げた由来であったのだ。三角を氷に見立てることは、すでに模様や菓子の氷室などによって知られていたために、多くの人を納得させたに違いない。

 民間行事として、また宮中のあまり公的でない行事として、水無月を食べる習慣があったのを、三角形と氷室の氷を結びつけて売り出す。京都は和菓子屋がそこかしこにある町であることから、あちらこちらに張り紙や旗などが出て季節感が盛り上がるというわけである(下略)。

 京都の菓子屋がこれだけ大々的に水無月を売り出さなければ、夏越の祓の日に水無月を食べる、という風習は今頃忘れ去られていたに違いない。

 連想されるのは、「土用の丑」に鰻をたべるという風習。夏に鰻が売れないとの相談を受けた平賀源内が、「丑の日に『う』の字が附く物を食べると夏負けしない」という伝承から、「土用の丑」の日に鰻を食べることを提案。このねらいが的中してその鰻屋が繁盛、他店も模倣してこの習慣が定着したというエピソードがあります(『明和史』1822〜23)。

 夏の盛り(旧暦6月晦日は、新暦7月下旬〜8月初旬)に和菓子の売り上げが落ちたかどうかは定かではないですが、この時期の”目玉商品”として「水無月」が考案され、鰻と同様、「夏負けしない、夏の病気にかからない」という”効用”を謳いつつ、拡張販売されたことは間違いないようです。

 なお、「氷室の氷」に見立てた季節菓子として、「氷の朔日」に食される金沢の「氷室饅頭(麦饅頭)」、「夏越祓」に食される八代の「雪餅」などがみられます。「水無月」を含め、どの地域の「氷室の氷」菓子が一番最初に定着したのかは知りませんが、最初に定着した菓子が他地域の「氷室の氷」菓子の誕生に影響を与えた可能性も考えられますね。



 4.6.おわりに

 滋賀県で初めて「水無月」に出会ってから、ずっと疑問に思っていた「水無月」の謎も、「水無月考」との出会いにより、やっと解けました。今日のバレンタインデーやホワイトデーなど、日本の菓子業界が始めた販売戦略のさきがけだったわけなんですね。

 京都・滋賀の「水無月」、そしてそれに連続する美濃・尾張の三角ういろう。なぜ、三角ういろうが小麦粉製であるかも、長い間の疑問でした。同地域が小麦の有数の生産地であるという環境だけでなく、室町期には夏越祓えに小麦粉餅を食べていたという歴史的背景があるということもわかりました。

 「水無月」が上記のように大々的に販売されるようになったのは、いつの頃からなのか? 京都・滋賀のどの地域にまで伝播しているのか? 課題はまだまだ残っていますが、この点については今後の課題としたいと思っています。なお、ここでは小豆には触れませんでしたが、小豆に関しては別項で述べる予定でいます。





  
〔参考文献〕  

     浅田ひろみ(2002)「水無月考」『和菓子』9
     井之口有一・堀井令以知(1992)『京ことば事典』東京堂出版
     楳垣實(1946)『京言葉』高桐書院
     大原穰子(2008)『京ことばの辞典』
研究社
     木村恭造(1994)『生活とことば〜京都・滋賀の暮らし』教育出版センター
     田口哲也(1994)『氷の文化史』冷凍食品新聞社
     中井幸比古(2002)『京都府方言辞典』和泉書院
     藤本如泉(1968)『日本の菓子』河原書店
     前田勇(1965)『上方語源辞典』東京堂出版

     牧村史陽(1979)『大阪ことば事典』講談社
     渡辺忠世・深澤小百合(1998)『もち』法政大学出版局


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