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 2、「ういろう」の渡来 

  お菓子の「ういろう」が、なぜ「ういろう」と呼ばれるようになったのか。なぜ、「外郎」と表記し「ウイロー」と読まれるのか。「ういろう」の渡来の経緯を振り返りながら、この謎を解き明かしていくことにしましょう。
 



 2.1.語義の転化 −語源ー


 まず始めに、お菓子の「ういろう」の語源について見ていくことにします。

〔目次〕 2.1.1 礼部院外郎
2.1.2 外郎家
2.1.3 外郎薬
2.1.4 外郎餅

2.1.5 まとめ

 2.1.1礼部員外郎

 2.1.1.1 職業名


 中国の隋王朝から清王朝にかけて、三省六部と呼ばれる政治制度が行われていました。三省の一つ、尚書省の下には実務機関として六部が置かれ、その一つに全国の礼・学・教育・科挙などを司る礼部がありました。その中で、郎官と呼ばれる官吏の定員外として設けられていた下級官吏を、宋王朝・元王朝時代には
員外郎、あるいは外郎と呼んでいました。

 この職業名であった「外郎」が、「外郎」いうことばの、本来の語義です。文字通り、郎の外にあるから、外郎と呼ばれていたんですね。
 
 さて、元王朝末期の浙江省は温州という都市に、この「大医院礼部員外郎」であった
陳延祐(1322〜1395)という人物がいました。この人物こそが、これから続く外郎の物語の主人公です。なお、大医院とは、皇室以外の官吏の医事を取り扱う役所とされていました。
 


 2.1.2 外郎家

 2.1.2.1 家名


 1368年、 元王朝から明王朝に代わったのを機に、元の大医院礼部員外郎であった陳延祐は日本へ亡命することになりました。元王朝末の混乱期、陳延祐の一族である陳友諒が、後に明王朝を興す朱元璋に敗れて殺害されたため、明に仕えることができなかったとの指摘がみられます(杉本1996)。

 当時の日本は、応安元年、足利義満が3代将軍に就き、正に室町幕府の最盛期を迎えんとしていた頃でした。陳延祐は、筑前博多に入り、自分の職業名だった外郎を取って
陳外郎と称しました。これが今日まで続く、外郎家の始まりとなります。この家名としての外郎が、「外郎」の第二の語義ということになります。

 それではここで、日本における外郎家の歴史を見ていくことにしましょう。

 (1)博多時代

 陳外郎は、医術や占いに詳しかったといいます。透頂香をはじめ、ほとんどの薬は彼の処方ではなかったかとされています。博多の崇福寺において僧となり、台山宗敬と称しています。当寺山門の近くには、現在も「ういろう伝来之地」の石碑が建っています(こちらのサイトに画像あり)。なお、辞書類にある「陳宗敬」という名前は、元時代の「陳延祐」と博多時代の号「台山宗敬」が混同されたものでしょうか。

 (2)京都外郎家

 延祐の子、大年宗奇(1372〜1426)のとき、足利3代将軍、義満の招きで京へ移り、幕府の近くに邸宅を賜っています。朝廷の典医、外国信使の接待、禁裏や幕府の諸制度の顧問をしていました。以下、月海常祐 外郎祖田と続きました。この頃の外郎家は幕府の医官を務めていました。

 6代目、為春外郎(1476〜1538)の頃には、虎屋外郎の名で、薬屋として合薬を売っていました。室町後期まで医家として活動していた外郎家も、やがて薬屋へと転換していったようです。

 9代目、外郎右近(1580〜1647)は、蹴鞠の達人としても知られていました。しかし、店を番頭に任せて蹴鞠に没頭した挙句、蹴鞠の本家である公家の飛鳥井家の家法に触れ、伊豆大島に流刑になってしまいました。京都外郎家は、元禄期(1690年代)まで西洞院錦小路で薬屋として存続していたようですが、その後は歴史から姿を消しています。断絶したともいわれています。

 (3)小田原外郎家
 
 小田原外郎家は、宇野右衛門定治に始まるとされています。
 『外郎系譜』によると、これは外郎家4代目・祖田の子の定治であるとされています。足利将軍家より宇野性を賜り、1504年には北条早雲の招きで小田原に移住しました。このとき、京都の本家を弟に譲ったといいます。北条家から厚遇され、多くの領地を持つ代官であると同時に、「虎屋」と称して透頂香を販売する中世の特権商人でもありました。なお、小田原外郎家は京都外郎家の直径ではなく、京都外郎家の被官であったとの説もみられます(杉本1996)。

 小田原外郎家は、小田原落城後もこの地において存続を許されています。江戸期になっても引き続き、小田原藩の特権商人として優遇され、藩主家より透頂香の保護を受けてきました。外郎家は500年後の現在も小田原に存続しています。現在の当主は24代目となります。
 
 

 2.1.2.2 転義〜職業名から家名へ

 職業名から家名となった外郎。このように、職業名が家名になった例をみてみましょう。

 「現場の東海林がお伝えします」のフレーズで有名な、ワイドショーのレポーターの東海林のりこ氏。私が子供のころ、どうして「東海林」が「とうかいばやし」「とうかいりん」ではなく、「しょうじ」と読むのか、とても不思議に思ったものです。

 一説によると、「東海林」さん、元々は「とうかいりん」さんと呼ばれていたようです。山形では現在も「とうかいりん」さんと称されるかたがいらっしゃるとのこと(こちら参照)。何でも「東海林」さんのご先祖様、荘園を管理する仕事をしていたそうで、その職業名が「庄司(しょうじ)」。「東海林」さんを、その職業名の「しょうじ」さんと呼んでいるうちに、いつの間にかそれが家名として定着してしまったようです。
 
 英語圏の事例としては、カーペンター(大工)、テイラー(仕立て屋)、ベイカー(パン屋)などがよく知られていますね(「欧米の人名」参照)。また、俳優の役所広司さんが俳優になる前に役所に勤めていて、芸名にこの「役所」を採用した話しは有名ですが、これも同じような事例といえるでしょう。

 元より亡命した陳延祐も同様、このように職業名の外郎を家名として採用したのではないかと想像されます。

 


 2.1.3 外郎薬

 2.1.3.1 薬名


 陳延祐を祖とする外郎家は代々、医事に従事し、やがては薬屋として発展していくことになります。外郎家は、「食薬」「玉屑丸」などの5種類の主な薬剤を初めとした、多くのを薬剤を取り扱っていました。その中でも外郎の薬を代表するものとして「透頂香」がよく知られていました。この「透頂香」は難しくて言いにく、外郎家の薬であったことから次第に、
外郎薬、あるいは単に外郎と呼ばれるようになっていきました。この薬名としての外郎が、「外郎」の第三の語義ということになります。

  (1)透頂香とは

 外郎家が北条氏綱(1487〜1541)に献じたことから小田原の名物になりました。御上人が冠の中に入れて珍重したことから、透頂香と命名されました。前述の、ポルトガル人宣教師による『日葡辞書』(1603)にも「次のような記述がみられます。
   
Tochinko(トゥチンカゥ) 「諸々の薬剤を合わせて作った、黒い小粒の丸薬」

 主成分は、「阿仙薬」「龍脳」「丁子」「甘草」「百檀」などの香料やスパイスなどで、これらの原材料は、元王朝の時代に南方や中近東などのと交易が盛んになったことから中国でも薬剤に使用されるようになりました。日本においては、主に消化器疾患に用いられていましたが、痰切りや、戦陣の救急薬にもなりました。

 ここで重要なのが、丸薬の外郎・透頂香とは別にもうひとつ、四方形・板状の
花外郎・透頂香と呼ばれる薬もあったという点です。室町期は男女を問わずお歯黒の風習がありました。江戸期は女性にだけその風習が残っています。お歯黒をしていた人たちの歯固めと、お歯黒独特の口臭を防ぐために使用されていたのが、この芳香性咀嚼剤の花外郎だったようです。

 これらの外郎薬は、江戸期も引き続いて小田原宿の名物として知られていました。仮名草紙『東海道名所記』(1659)には、
「東海道第一の名物也」との紹介がみられます。現在も小田原の外郎家により販売されています。形状は、仁丹のような銀の小粒へと変化しています。

 (2)外郎売り

 室町期以降、特に織豊期にもなると農業インフラ整備の進展に伴い、庶民の経済力が一段と向上してきました。同時に、上流階級に限られていた医療も庶民の間に普及、その中で大きな役割を担っていったのが、薬剤でした。

 室町期には、多くの薬屋が登場し、同時に薬の行商も大きく広がっていきました。外郎も、旅の遊芸や行商人にその販売を委託し、各地で販売されていきました。

 そのような中で登場したのが、1718年、二代目団十郎が上演した「外郎売り」です。外郎の行商の台詞と、中世以来の芸能集団の口承文芸が結び付き、二代目団十郎がそれを芸術の域まで高めたと言われています。外郎薬の由来と効能を連ねた早口で饒舌な台詞は、「声をよくし、舌の回りをよくする」という宣伝効果も相まって、日本人の外郎好きを促進したと言います。

  なお、この「外郎売り」の台詞は、現在も俳優やアナウンサーの滑舌の練習として活用されているそうです(こちら参照)。

 2.1.3.2 転義〜家名から商品名へ

   「マック」「マクド」など、地域によっていろいろな略称を有するほど身近となった「マクドナルド」。「マクドナルド」の主力商品といえば、ハンバーガー。ハンバーガーといえば「マクドナルド」というように、現在はハンバーガーの代名詞となっています。

 元々は、1940年にアメリカでマクドナルド兄弟が創業したのが始まりとされています。幾多の変遷を経て、現在は世界を代表するファーストフード・チェーンとなっています。

 これなどは、家名が商品名となった好例といえましょう。創業家の代表的な商品がブランド力を有し、世間では「家名=商品名」という認識が拡がっていったもの思われます。外郎家が製造・販売を開始した薬剤も同様、「外郎=透頂香」という認識が拡がっていったのではないかと想像されます。
 



 2.1.4、外郎餅

 2.1.4.1 菓子名


 外郎家の2代目である宗奇(1372〜1426)が、外国信史の接待のときに自ら造った餅菓子を供しました。それが、苦い外郎薬の口直しといて好まれたともいいいます。この餅菓子の色や形状が、黒くて四方形・板状の花外郎と似ていたことから、やがては「
外郎餅」と称されるようになりました。

 江戸期のお菓子レシピである『和漢三才図会』(1712)にも次のような記述がみられます。
   
「外郎は相州小田原の人の名なり。透頂香丸を製して売りて名を鳴り、竟に呼んで薬の名と為す。
    「黒色にして香美なり。此の餅の色稍似たるを以つて名づく」


 これより、この菓子名としての外郎が、「外郎」の第四の語義ということになります。なお、外郎家が製造したから「外郎」と命名されたとの説もみられます。

 (1)小田原外郎家の外郎餅

 小田原外郎家では、外郎餅を毎年の先祖祭りの日にお供えしたり、平素は客の接待に供していたとされています。江戸期は一般に販売することがなく、明治4年になってお菓子の「ういろう」の商標が登録されて以降、、一般に販売が開始されました。

 (2)京都外郎家の外郎餅

 京都の外郎家の滅亡後、仕えていた職人により、外郎と名づけたお菓子が各地に現れるようになったといいます。小田原の外郎家が江戸期を通じて一般販売することがなかったこと、明治期以降も小田原以外では販売をしていないことを鑑みると、今日、全国に展開する外郎は、この京都外郎家に仕えた職人が拡げたものがその起源と考えられます。なお、その後の外郎の歴史については、別項で考察の予定です。


 2.1.4.2 転義〜他の商品名へ

 お菓子の名前の由来を調べていると、「○○に似ているから、○○」と命名された」という例がいくつかみられます。「からすみ」を例に、見て行きましょう。。

 「からすみ」というと、一般には「ボラの卵巣を塩漬けにし乾燥したもの」(こちら参照)を想像されることと思います。漢字では、「鯔子」と書くようです。現在は、日本の三大珍味とひとつとして知られています。ちなみにこの「からすみ」、中国から来た「唐墨(からすみ)に形が似ていることから、「からすみ」と命名されたようです。

 一方、岐阜県東濃地方や愛知県北三河地域で「からすみ」といえば、「ういろう」に似た餅菓子を言います。節句では一般家庭で作ることもあるようですし、当域の和菓子屋さんでも販売されます。この和菓子がどうして「からすみ」と呼ばれるようになったのかというと、形が珍味の「からすみ」に似ているからといわれて言います。

 つまり、この餅菓子の「からすみ」、形が似ていたことから次のように2回転義しているわけなんですね。

  墨 > 珍味(ボラの卵巣) > 餅菓子

 他の例として、萩の葉>お萩、牡丹の花>ぼたもち、牛の皮>求肥 などが挙げられます。これらの例と同様、お菓子の「ういろう」も「外郎薬」に似ていたことから「外郎餅」と命名されることになったようです。
  


 2.1.5 まとめ

 これより、「外郎餅」は次のように、3回に渡り意味が変化(転義)した結果、成立したということがわかりました。言語学的にみても、とても興味深い事例といえましょう。

   
礼部員外郎 > 外郎家 > 外郎薬 > 外郎餅 
    (職業名)     (家名)    (薬名)    (菓子名)

 14cの中国における王朝交代、医家であった陳氏の日本亡命、陳氏が製剤した薬の普及、そして陳氏が作り出したお菓子の普及。これらの出来事が、偶然にあるいは時代の必然として相まって、「外郎」というお菓子が、「外郎」という名前で、現在の私たちの前にあるわけなんですね。

 


  
〔参考文献〕  杉本茂(1996)「中・近世における外郎家と売薬・透頂香の展開に関する薬史学的研究」
            杉山茂(2007)『外郎・透頂香と江川酒』近代文芸社
            外郎公式サイト『ういろう』

 

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